亀岡の南西、丹波篠山に向かう国道372号線から、神尾山(かんのおさん、359m)の九十九折の道を登ると、山の頂付近に金輪寺(きんりんじ)が建つ。山号は神尾山(かみおさん)という。
本山修験宗、本尊は薬師如来像。
口丹波西国三十三所霊場。
◆歴史年表 奈良時代、783年/延暦年間(782-806)、西願(せいがん)により創建された。当初は天台宗とした。(寺伝)
その後、荒廃する。
平安時代、寛治年間(1087-1094)、高山寺・明恵により再興される。当時は南谷、北谷に一切経蔵ほか多くの坊舎が建ち並んでいたという。現在地は、北谷になる。
室町時代、1495年、南谷に一切経蔵に関する記述がある。(「後土御門天皇綸旨写」)
1526年、柳本賢治の兄・香西元盛が細川尹賢の讒(ざん、讒言)により細川高国に殺された。賢治は、波多野稙通と高国に反抗し、神尾寺城に拠って阿波の細川晴元党に呼応した。(『言継卿記』)
その後、明智光秀(1528?-1582)の丹波攻めの拠点になる。
1577年、兵火により堂宇の大半を焼失する。
江戸時代後期、住職・大橋黙仙は勤王志士と交流し、当寺は勤王派の拠点になる。
◆明恵 平安時代後期-鎌倉時代中期の高山寺中興の祖・明恵(みょうえ、1173-1232)。紀州湯浅(有田郡石垣庄)の生まれ。父は武士・平重国、母は湯浅宗重の娘。1180年、8歳で孤児になり、1181年、9歳で神護寺の叔父・上覚の下に入る。仁和寺の尊実、尊印、景雅より真言密教、華厳を学ぶ。上覚、勧修寺の興然より密教を学び灌頂を授けられる。1188年、上覚により出家、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。成弁(後高弁)と称した。1193年、東大寺に出仕する。東大寺・尊勝院の聖厳、建仁寺でも学び、華厳、真言、律、禅宗などを体得した。1195年、紀州白上峰に隠遁した。1198年、高雄に戻され文覚より寺再興を託される。白上、筏立(いかたち)に戻る。1199年、高雄、筏立に籠る。1201年、筏立、糸野に移った。1202年、上覚により伝法灌頂を受ける。1203年、天竺行を春日明神の神託により止める。春日神社、笠置に解脱上人を訪ねた。1204年、糸野、神谷、栂尾、紀州・崎山に移る。1205年、神谷で入唐を決したが実現できなかった。栂尾に移る。1206年、高山寺を建立した。1207年、院宣により東大寺尊勝院学頭。1208年、紀州に移り、1210年、栂尾に戻る。1216年、石水院を建立した。1217年、紀州、1218年、栂尾、賀茂仏光山に移った。1223年、善妙寺建立、1224年、楞迦山に蟄居する。1226年、紀州、1229年、神護寺講堂供養導師、1231年、紀州施無畏本堂供養、1232年、亡くなり禅堂院に埋葬された。60歳。
明恵は法然とも対立し『摧邪輪(ざいじゃりん)』(1212)で糾弾した。華厳を基礎とし、真言密教も取り入れた厳密(ごんみつ)は、実践的な修行を重んじた。仏の足下より発する光に一体化する仏光観、五秘密法(金剛薩埵・欲、触、愛、慢)を説いた。仮名混じり文『華厳唯心義』を著し、多くの在家女性の読者を得、女人救済に尽力する。建礼門院も明恵により受戒した。『解脱門義聴集記』、自らの見た夢を40年にわたり綴った『夢記(ゆめのき)』(1190-1231)などがある。